Background of VS Project


Title: Virtual Society

 
バーチャル・ソサエティーとは、21世紀初頭に出現するであろう 仮想社会のことであって、私は、1984年頃から考えて きていたものである。実は、十年以上も構想を温めていたのだが、 ビジネス化を狙っていたので、どこにも発表したりはしてこなかったのである。 特に、1993年からは、ソニーコンピュータサイエンス研究所に置いて、 構想具体化への作業が、急激に進展した。 最近、その実現に必要なシステムの一部がソニーにおいて プロジェクトとして、開発が行なわれ、一部が公表されたので、 その構想・理念を少しずつ述べていきたいと思う。 バーチャル・ソサエティーの全体は、大きな社会構造やインフラストラクチャーも 包含する妄想(?)のような話しなのだが、ソニーでは、その最終到達点を 踏まえた上で、第一歩となるシステムを、ソニー中央研究所の 竹内彰ー博士の率いる優秀なエンジ ニアリング・チームが、開発している。 (これは、大規模な多人数 共有空間を実時間で3Dインタアクション可能とするシステムの開発であっで、 技術的にも極めて困難な技術を含んでいる。開発チームは、日々大変なご苦労 をなさっており、頭の下がる思いである。確かに、バーチャル・ソサエティー のコンセプト自体は、私が提案したものであるが、それが実現されたなら、その功 績は、竹内氏に率いられたエンジニアたち、そして事業化に努力された 方々のものであり、彼らに、大変な苦労を強いている責任は私にあると言える。) 去年のクリスマスから、 インターネット上で、ダウンロード可能となった、Enhanced VRMLブラウザー CyberPassageとオーサリング・ソフトウエアのCyberPassage Conductorがそ の一例である。ダウンロード・サイトは、 http://vs.sony.co.jpである。 もちろんそれらのソフトウエアで、すぐにバーチャ ル・ソサエティーが、実現する訳ではないが、実現に向けての第一歩である。 ここでは、バーチャル・ソサエティー構想の基本概念について触れてみたいと 思う。 もちろん、これは、私の持っている思想であって、ソニーがバーチャル・ ソサエティーのコンセプトをもとに、製品を開発したとしても、この思想の一部また は、全てにコミットしたかは別の話しである。特に、私の主張が、政治構造 や社会システム及び、価値観に言及する場合、これがソニーの公式な立場であ ると誤解されることは避けたい。

さて、ことの起こりからお話しよう。 今から10年以上前の、1983年から1984年にかけて、私は、アドベン チャー・ゲームを作っていた。ゲームの名は、"XENOS"といい、 宇宙船が不時着したさきで、未知の惑星を探検し帰還するという ストーリーだった。 いゆるテキスト・アドベンチャー・ゲームで、 英文入力だが、今から考えると、 複文や省略などを扱える言語理解能力や自律的エージェントが ゲームの世界を動き回るなど、いろいろ工夫をこらしたシステムであった。 これは、エニックスのソフトウエア・コンテストから 賞をいただいて、製品化の道を模索したのだが、何しろ英語の アドベンチャー・ゲームなど日本で売れるわけはなく、日の目を見ずに 終わってしまった。

しかし、このゲームは、私が後に人工知能の研究を始めるきっかけを 作るとともに、「バーチャル・ソサエテイー・プロジェクト」の 基本概念を生み出すこととなったのである。 ゲームを開発しながら、まず考えたのは、ネットワーク・ベースの 多人数型アドベンチャー・ゲームであった。その中で、商店があり、 ゲームの中に必要なアイテムだけでなく、実世界で使えるアイテム(商品)も 買えるようにしようという構想だった。 何しろ、1984年当時であるから、マイクロVAXをサーバーにして、 1200ボーのダイアルアップという構成を想定していたが、当時の状況では、 構想の実現は夢のまた夢という状態であった。しかたなく、私は、 構想を温めると共に、自分では人工知能の研究に入っていったのである。 それから、12年の年月が過ぎたいま、コンピュータの性能の向上、 ネットワークの帯域幅の増大など、バーチャル・ソサエテイーを実現するための 基盤が少しづつ整い始めてきたのである。 そして、この構想の推進のためのシステムが開発されているのである。 しかし、バーチャル・ソサエテイーの構想を、理解するには、 さらに将来に目を向ける必要がある。それも、現在の延長ではなく、 不連続な領域までイマジネーションを広げてみたい。 The Road Aheadではなく、The Road to Createである。 まず、未来をイメージすることとしよう。 21世紀の初頭には、全世界的な規模で張りめぐらされたネットワークの 中に、仮想的な社会 --- バーチャル・ソサエティー --- が出現すると思う。 全世界の人々が、ネットワーク上に作られた共有空間の中に、 数千万人、数億人という規模の「社会」を出現させ、それが現実社会にも 決定的な影響を与えるであろう。 この社会の中で、人々は、買いものを楽しんだり、 人と会話をする、ゲームをする、仕事をする、など、 通常の社会生活とほぼ同等の社会行為を行なうことができるうえ、 仮想的であるゆえに可能である(つまり、一瞬にして、東京からパリに移動するなど、 実社会では困難である)ことも可能となる。 ここまでは、いわゆるエレクトリック・コマースやネットワーク・ゲームの延 長に過ぎないように思えるが、実は、バーチャル・ソサエティーの実現は、 政治的、社会的に極めて大きなインパクトを与える、また、 その様な影響を与える構造を作り上げていくことが必要であると考えている。 なぜこの様に考えるかと言うと、それが技術の必然だからである。 インターネットがはやっているとかではなく、人類の歴史を見れば 明白になることなのである。
歴史的意義 --- 「自由」のための技術
未来学者である、アービン・トフラーは、「第三の波」で、 農耕社会、工業社会、情報社会という捉えかたで、産業革命の波を 説明しようとしている。ある意味では、彼は正しい。 しかし、私には、彼の見方は、表面的であると思う。 なぜなら、そこには、技術開発を押し進めた、根源的推進力が 示されていないからである。

私は、技術開発の歴史は、人類が「自由」を獲得し、人生の 可能性を拡張していく歴史だったと考える。 まず、農業技術は、我々に、安定した食糧の供給をもたらし、 たえず獲物を追って狩りをしなければ生存が危機にさらされるという 状態から開放した。 即ち、農耕技術は、人類に、飢餓からの自由を与えたのである。 (今日でも、飢餓が存在するのは、大変不幸な現実だが、 少なくとも、多く人々は、飢餓の心配をしなくて済むようになった。) 次に、運輸技術を見てみよう。交通手段を、得たことにより、 人類は、大きな移動の自由を得ることができた。 これによって、交易の範囲が、飛躍的に拡大し、人類の文明が急速に、 発展し始めた。この技術は、ジェット機の登場、そして、アメリカ等の 宇宙計画によって、一つの頂点を向かえている。

次に、通信技術がある。 原始的な通信技術は、「のろし」などから、始まった訳だが、 電気通信(有線・無線)の登場で、飛躍的に通信可能な範囲と情報量が、 向上し、今や世界中の人と話しをすることが可能になった。 ここで、人類は、通信の自由を獲得したといえる。

これからいえるように、技術開発の歴史は、人類が、色々な「自由」を獲得してきた 歴史であったとも言える。そして、その「自由」は、 「飢餓からの自由」と言う、非常に基本的なところから、出発して、 より抽象的な自由の獲得に向かっている。 このように考えると、次の大きな技術革命は、 一つの人生からの自由、肉体的束縛からの自由、政府からの自由など、 非常に高度で抽象的な自由を獲得するための技術であるといえる。 また、その得られた自由を使って、人生を拡張している歴史である。

ではバーチャル・ソサエティーでは、どの様に自由が獲得でき、 それによって何が拡張され得るのかを考えてみよう。
拡張された人生(Augmented Life)としてのバーチャル・ソサエティー
まず、「一つの人生からの自由」という捉えかた、そして それにともなう「拡張された人生(Augmented Life)」を考えてみよう。 例えば、ごく一般的な、会社員を考えてみる。 この世の中では、この人は、会社員としての人生を歩むのであり、 少なくとも、その時点では、 会社員としての一つの人生に束縛されていることになる。 しかし、昼間は普通の会社員でも、バーチャル・ソサエティーの中では、 Virtual F-1のヒーローであったり、することもあり得るであろう。 この場合、この人は、会社員とVirtual F-1 Pilotの二つの人生を経験する することができる。つまり、仮想的に複数の人生を生きること、 つまり一つの人生からの自由が得られる。 ここで、ゲームと違うのは、実際にそこには、他の人間がいて、 社会が存在し、それが永続的に続いていることである。 これは、現実社会でも、仕事をしている時の「公の人生」と、 家庭での「個人としての人生」があるのと同じである。それに、 仮想社会での「バーチャルな人生」が加わるのである。 この時に、現実世界と仮想世界は、独立に存在する訳ではなく、 一体化した新しい空間/社会として出現すると考えられる。 従って、「複数の人生」は、現実世界と独立に存在する訳ではなく、 現実世界の人生を、より豊にする「拡張された人生」となる。

はたして、「バーチャルな人生」を加えたからといって、人生が拡張され 豊な人生がおくれるようになるのであろうか? 私が、この話しをすると、必ず受ける質問である。 つまり、所詮は疑似体験であるという疑問である。 また、バーチャルな世界では、何でも思ったとおりになるのではないかなどで ある。バーチャル・ソサエティーで、何でも思い通りになるというのは、甘い 考えである。そこは、仮想的ではあるが、社会である。よって、社会的制約が 発生する。また、制約の少ない社会を選ぶこともできる。そこでは、思った通 りにことが運ぶが、学ぶことは少なく、満足感の少ない世界であろう。 しかし、それも個人の自由である。

また、「複数の人生」とか「仮想的な体験」というと、ニセモノであるとか、 現実逃避と短絡的に考えがちである。 しかし、映画やCDなどの一般的に受け入れられているエンターテイメントを 例に分析して見てみると、バーチャル・ソサエティーが、 単に、ニセモノとか現実逃避とはいえないと分かるであろう。

エンターテイメントにも、いろいろあるが、ここでは、単に面白おかしい という種類の娯楽ではなく、小説や映画などの中で、特に、 「感動的である」「深い」と、されているものについて考えてみよう。 現在、広く社会に受け入れられている、小説や映画、ゲームなどの エンターテイメントは、まさに「一つの人生からの自由」、「複数の人生」 を疑似体験という形で実現しようとしていると考えることができる。 例えば、ある感動的な映画を、見たとしよう。この映画を見ているあいだ、 私たちは、映画の主人公になったつもりで、感情移入して、その 主人公の人生を生きているのでないだろうか? つまり、自分の人生から自由 になり、他の人生を仮想的に生きているのである。 自分の人生ではない人生を、感情移入を伴った疑似体験で経験し、そこから、 人生や愛、世界について、いろいろなことを学び取っていくと考えることがで きる。それが、上質のエンターテイメントの心髄ではないだろうか? これは、文学にも同じことが言える。その物語りを読んでいる間は、 主人公の人生を疑似体験しているのである。 これらが「疑似」だからといって、意味がないと言う人はいないであろう。 このように、疑似的な人生体験は、現実の人生に反映され、 私立ち一人一人の人生を豊にしていくと考えられる。

このように、いろいろな経験をさせてくれる小説や映画だが、 現在の形態では、小説や映画が終った瞬間に、 疑似体験が終了し、その瞬間に、現実に戻ってしまう。 つまり、疑似体験の連続性が、存在しない。断片的でしかないのである。 確かに、映画や小説では、練りに練られて決められたストーリーが存在し、 感動を呼び起こし、色々な教訓を与えてくれている。 これは、単に仮想社会の中で、生きているのでは、経験できない 点といえる。しかし、連続性の欠如のために、継続的に 経験するということ、そして、自分が関与するということができないという 問題点がある。 バーチャル・ソサエティーは、映画や小説とは対極に位置した 方法で、疑似体験・複数の人生を生き、人生を拡張するということを可能にし ようとする構想である。 実際に、自分がその世界に入ることができると、映画や小説とは、別のレベル の拡張が可能となる。

実際、私は、非常に面白い経験をしたことがある。 あるとき、私は、セスナを飛ばすことが趣味と言う人と操縦の 話しをしていたことがある。話し始めて、30分ぐらいした時に、 彼は、私が、どこでライセンスをとったのか、とか、いつもはどこで飛ばして いるのかとかを聞いてきたのである。何と、彼は、私が、マイクロソフト・フライト シミュレーターで飛ばしていると気がつかなかったのである! つまり、私の疑似体験は、シミュレータによって、拡張され、 本物のパイロットと深いレベルで会話を続けることができたのである。 このレベルの疑似体験は、映画や小説では無理である。 ネットワーク化されていないゲームでさえ、この様なことが起こり得るのであ る。バーチャル・ソサエティーでは、さらに色々なレベルで、人生経験が 拡張されるであろう。

また、どこまでが「疑似」で、どこまでが「現実」であるかという 境界も曖昧なものである。 例えば、CDを聞くことは、疑似的音楽体験であろうか? 現在、我々の生活の中で、ほとんどの音楽体験は、CD等の、録音/再生 によってなされているが、もし、CDによる音楽体験を、偽物であるとして、 生演奏以外では、音楽は聞かないとしたなら、我々の音楽体験は、 非常に貧困なものになってしまうであろう。 また、最近では、「生」が存在しない音楽も多くつくり出されている。

このように、考えていくと、何が「疑似」「仮想」で、何が「現実」かの、 境界は、曖昧であり、「現実」ということにこだわり過ぎると、 せっかくの可能性をのがしてしまうといる。 もっとも重要なことは、総合的に人生をどの様に、より豊な ものにしていくかということで、仮想社会と現実社会を融合させ、 「拡張された人生」をおくるということであろう。
国家からの自由
次に、国家からの自由を考えてみよう。 アメリカの歴史家、フランシス・フクヤマは、「歴史の終り」 という名著の中で、自由・平等という双子の原理を基盤とした リべラルな民主主義によって歴史は終りを告げると主張している。 彼は、リベラルな民主主義が、「人類のイデオロギー上の進歩の終点」 および「人類の統治の最終の形」になるかもしれないというのである。 そして、現在の民主主義の世界的展開によって、遠からず歴史は終ると 結論付けている。 へーゲルの「認知を求める闘争」をふまえた、非唯物論的歴史観に基礎をおく フクヤマによれば、そもそも歴史は、原始時代の二人の兵士が決闘をし、 一人が威信のために命を投げ出す決意をし、他方が、死への本能的恐れのため に屈伏し、主君と奴隷の関係が発生したことから始まるとしている。 確かに、世界的な民主主義の波及によって、歴史は一つの終りを告げようとし ているかも知れない。しかし、国家とその構成員としての市民の間に 構造的従属関係がないと言い切れはしないであろう。 これは、民主主義の欠陥ではなく、その実現技法の問題である。 私は、バーチャル・ソサエテイーとその中での、サイバー国家群が、 現実世界とインターアクトし、構造的従属関係を解放、少なくとも かなり弱める、働きをすると考える。

バーチャル・ソサエティーの実現によって、ネットワーク上に、 国境を越えた一つの社会が形成され、疑似国家または、 サイバー・ステーツ(Cyber States)が発生する日も 遠くはないであろう。 素人ながらに、国家の成立用件を考えてみると、 領土、国民、経済、軍事、政府などがある。 バーチャル・ソサエティーでは、記憶空間やネットワークが領土であり、 ユーザが国民となる。エレクトリック・コマースなどで、経済活動が 発生し、いづれ独自の機構を持つようになるであろう。 当然、内部秩序や他の集団との間での交渉のために、政府が設立されるであろ う。コンピュータ・ウイルスによる攻撃を避けるために、防衛システムも 必要となる。

このようなサイバー・ステーツが、成立し始めると、我々は、実国家と サイバー・ステーツの 二つの国家に籍を置く日がやってきそうである。 ここで、興味があるのが、サイバー・ステーツの利益と実国家の利益が、 衝突した場合に何が起きるかである。 実国家は、法律などの手法で、サイバー・ステーツの活動を制限しようとする であろうが、 その効力は、その領土ないでのみ有効である。 サイバー・ステーツは、ネットワーク上に存在するので、場所の特定が困難である。 また、サーバが、国外に設置されていれば、そのサーバを 管理・監督することもできない。 そもそも、サイバー・ステーツの構成員は、多国籍であり、領土的国家観を越えた ものである。従来の国家(nation States)が、領土と民族を中心とした 集団の制度化であったのに対して、サイバー・ステーツは、 理念や利益など、個人の指向性に基盤を置く国家になるであろう。

このような場合、サイバー国家の住民は、実国家から、現在より大きな自由を 手に入れることになる。 すなわち、実国家に置ける制約から開放されることになるであろう。 ということは、実国家が、市民に不利益を与える政策をとった場合、 色々な活動がサイバー・ステーツの中で行なわれる比率が増大することになる。 簡単に考えると、国家は、その領土ないで行なわれる活動によって 支えられている。例えば、領土ないでの経済活動によって 税収をえているのである。もし、実国家が、魅力的な政策を打ち出せないなら、 サイバー・ステーツに活動が流出し、実国家の経営が苦境に陥るということも あり得るであろう。 この様な、状況に達すれば、サイバー・ステーツと実国家間のチェック&バランス が働く可能性も存在する。これは、国家レベルでの、自由市場であり、 フクヤマの主張する民主主義の国家を越えたレベルでの実現であろう。 つまり、バーチャル・ソサエティーの実現で、歴史は終るのである。

紙面の制約で、これ以上議論を展開するすることはできないが、 バーチャル・ソサエティーの理念と社会的インパクトに関しては、随時Web で、発表したいと思う。 (https://vscommunityplace.blogspot.com/p/blog-page_14.html) さらに、バーチャル・ソサエティーは、一企業の力では、成立し得ないの である。つまり、社会にはならないのである。 構想へ色々な形で参加していただけるかたを幅広く、お待ちしている。